ポールが日本聖公会を通じて英国カンタベリーに贈ったコープ、マイター。1987年、東京東武百貨店で開催された「カンタベリー展」で里帰りした。


ポールが贈った法衣を着用したカンタベリー大主教のエリザベス女王戴冠式はフリー百科事典Wikipediaで見ることが出来る。画面で女王に向かい合い、左側に立つのが大主教である。


日本アメリカンフットボールの殿堂を日本協会の古川理事長ら役員の案内で見学される高円宮殿下。
平成21年12月12日の偲ぶ会で公開されたポール・ラッシュ博士の遺骨が眠る納骨堂。清里聖アンデレ教会聖壇の真下にある。



Episode-4
日本フットボールと皇室とエリザベス女王と
山梨県アメリカンフットボール協会理事 井尻俊之


◇ポール・ラッシュ博士を偲ぶ会と天皇陛下の教え

 平成21年12月12日は、日本アメリカンフットボールの父であり、キープ協会の活動を通じて戦後日本の恩人であるポール・ラッシュ博士の逝去記念日。本年は没後30周年という節目にあたり、ラッシュ博士が永眠し、遺骨が安置される八ヶ岳山麓清里の聖アンデレ教会において、記念礼拝と偲ぶ会が行なわれた。
 偲ぶ会にはGHQでラッシュ博士の下で東京裁判の資料翻訳の作業を担当した東京都新宿在住の佐藤輝夫氏(88歳)が参加し、当時の思い出を語った。また地元関係者はラッシュ博士の理想を継承し、自分たちの生き方、また社会の発展に活かしていくことを語り合った。参加者は16人だった。

 人にはおよそ2度、死が訪れると言われる。1度は肉体の死、そして2度目は人々から亡き人の記憶が喪われたとき。そのとき、亡き人が持っていたであろう熱い想いも業績もすべて無に帰したことになる。では、残された者たちは、亡き人たちにどのように向き合うべきなのだろうか。

 そのことをわれわれに教えてくださったのは平成17年8月、ポール・ラッシュ記念センター、日本アメリカンフットボールの殿堂をプライベートに訪問され、ポールの追憶を語られた今上天皇陛下である。
 陛下は政府主催の即位20年記念式典が催される本年の11月12日に先立ち、皇后様とともに皇居で記者会見され、過去を思い起こし、その中に教訓を得て、未来に備えることの大切さを次のように語られた。

「今、日本では高齢化が進み、経済が厳しい状況になっています。しかし、日本国民が過去にさまざまな困難を乗り越えて、今日を築いてきたことを思い起こす時、人々が皆で英知を結集し、協力を進めることにより、日本が現在直面している困難も一つ一つ克服されることを願っております。
 私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。(中略)
 昭和の六十有余年は、私どもに、さまざまな教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。
 平成生まれの人々が、スポーツや碁の世界などで活躍するようになりました。うれしいことです。いつの時代にも、心配や不安はありますが、若い人々の息吹をうれしく感じつつ、これからの日本を見守っていきたいと思います」

◇ポールが結ぶ皇室と英国王室の秘められた歴史

 陛下のメッセージに導かれ、われわれは過去の先輩たちの歴史に学び、未来に備える。そのために、これまで知られなかったフットボールの父と日本の皇室、そして英国王室を結ぶ、もう1つの過去に秘められていた栄光の歴史を明らかにしてみたいと思う。

 それは昭和23年1月、東京の神宮競技場で第1回ライスボウルを成功させた直後のことだった。その年世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)は、英国ロンドンで10年に一度のランベス会議を開催することになり、日本聖公会にも招請状が寄せられ、GHQの渡航許可を得て、八代斌助・主教ほか2人の主教が参加することになった。これはGHQが公式に海外渡航を許可した最初の日本人となった。
 聖公会とは英国国教会の海外における姉妹教会の名称であり、英国国教会とは、16世紀のイングランドで成立した英国国王を最高権威とするキリスト教会であり、ランベス会議では、第2次世界大戦後の平和を築くための宗教者の役割を語り合うことになっていた。日本における聖公会は聖路加国際病院、立教学院、桃山学院などのミッション事業を立ち上げたことはEpisode-1で紹介した。

 この渡英計画を聞いたポールは、敗戦国日本の復興を世界に伝える絶好のチャンスととらえ、GHQの特権と人脈を駆使してスペシャル・パスを放った。
 ポールの手配により同年5月6日、八代主教ら三主教は官邸に芦田均首相を訪問、翌7日三主教は皇居に昭和天皇・皇后両陛下に拝謁。天皇陛下より「日本が民主国家建設に尽力していることを米英の人々によく伝えるように」と英国国王への心こもるメッセージを託された。その後GHQにマッカーサー元帥を訪問し、激励を受けた。

 われわれが驚嘆するのは、そればかりではない。ポールは、立教大卒業生だった京都・西陣織で皇室御用達を務めていた高田茂に依頼し、日本の伝統技術の粋を尽くして、英国の伝統様式に則って白地に薔薇の模様を縫い取った荘厳なコープ(法衣)、マイター(主教冠)を制作した。これを日本からの贈り物として三主教に託し、英国国教会のカンタベリー大主教に贈るという途轍もないアイデアを実現させてしまったのである。敗戦国日本の国民が戦勝国英国を訪問するのであるから、英国で敗れざる日本の精神文化を発揚させようと考えたのだ。資金は毎日新聞本社にあったセント・ポールクラブでの慈善ダンスパーティなどで調達した。

 英国と戦争を戦った敗戦国の職人の製品を大主教が気に入ってくれるかどうかは大冒険だったが、結果は大成功だった。昭和天皇のメッセージと一緒に贈り物を受納したカンタベリー大主教はことのほか気に入り、昭和28年6月2日、女王エリザベス二世の戴冠式で着用した。かつての敵国民が制作した法衣をまとい、カンタベリー大主教は、エリザベス2世の頭に王冠を被せたのである。

◇エリザベス女王の戴冠式にかかわったポールの贈り物

 女王エリザベス2世の戴冠式はロンドンのウェストミンスター寺院で行われた。まず、ポールが贈った日本の西陣製の法衣をまとったカンタベリー大主教が祈祷し、国王は宣誓して戴冠式の椅子「キング・エドワード・チェアー」に着いた。大主教は、国王の頭と胸、両手のてのひらに聖油を注ぐ。次に、女王は宝剣と王笏、王杖、指輪、手袋を授けられ、大主教の手により純金製の「セント・エドワード・クラウン」が戴冠された国王は椅子に戻り、列席の世界中の貴賓から祝辞を受けた。
 この式に、日本から列席したのが皇太子明仁親王(今上天皇)である。昭和天皇の名代として参列した皇太子は、日本から贈られた西陣織のコープ、マイターがエリザベス女王を荘厳する様子を間近でご覧になった。日本の面目はここに発揚されたのである。

 日本は英国との戦争には敗れたが、ポールの意図は京都の西陣織に代表される高貴な文化精神を保持している日本人の心意気を英国民に示すことであった。この京都製コープ、マイターはその後も英国で大切に使われ、現在もランベス宮殿に保存されている。日本のフットボールの父とカンタベリー大主教、エリザベス女王、天皇がランベス宮殿で今もつながっている。何ともポールにふさわしい痛快な話ではないか。そして、そういうケタはずれの男を日本のアメリカンフットボールは「父」と呼んでいるのである。

 昭和54年、寝たきりとなり死の床についていたポールの病状を聞いたカンタベリー大主教ラムゼイ師は、病気見舞いのためにわざわざ八ヶ岳山麓の清里を訪れている。世界聖公会の霊的最高指導者が、ポールに捧げた感謝と敬意であった。

※ポールが贈った法衣を着用したカンタベリー大主教のエリザベス女王戴冠式はフリー百科事典Wikipediaで見ることが出来る。画面で女王に向かい合い、左側に立つのが大主教である。

 皇室とフットボールの父を結ぶ縁(えにし)は昭和54年12月のポールの死とともに地下水脈としてフットボール関係者の記憶から消えていった。
 その地下水脈が再び世に現れたのは平成6年12月、ベースボール・マガジン社が刊行した「1934フットボール元年―父ポール・ラッシュの真実 (井尻 俊之・白石 孝次 共著)」がきっかけだった。この本は日本アメリカンフットボールの創立60周年の記念事業として同社の池田恒雄社長(当時)の支援で企画され、刊行と同時に関係者の熱意により、「日本アメリカンフットボールの父ポール・ラッシュを偲ぶ会」を開催しようという話へと発展していった。1冊の本がもたらした記憶のショットガンは放たれ、地下水脈を噴出させた。

◇復活したアメリカンフットボールと皇室の公式行事

 父を偲ぶ会が開催されたのは翌7年3月6日夜。東京八重洲富士屋ホテルにて日本アメリカンフットボール協会、キープ協会、日米協会、聖路加国際病院、立教大学、ならびに日本聖公会等の各機関、団体が共同主催に名を連ねた。
 主賓として臨席されたのが三笠宮様ご夫妻であった。皇室とフットボールの公式の式典は、昭和9年秩父宮殿下が最初の試合を観戦されて以来、61年ぶりとなった。宮様は、原稿無しで長いスピーチをされた。
 「1925年の関東大地震のあと、YMCAの再建また聖路加の建設で全米を行脚された。清里の清泉寮はキープの発端となった。さらに米国への呼びかけの手紙を生涯に100万通、呼びかけの講演を数千回もされた。
 82歳で生涯を閉じられた時には、自分の財産はパジャマと歯ブラシだけ。つまり、すべてを日本に捧げられたことに、感慨無量であります。ラッシュ博士はミスター・アメリカとも呼ばれたというが、アメリカの良き理想主義が体に充満しておられ、それを実践して日本のために尽くされた方だった。皆様が博士の残された理想に向かって協力し、発展するように願っております」

 宮様のお言葉が、天皇陛下の思し召しと同じ文脈のなかで語られていることは驚くばかりである。この文脈では、日本のアメリカンフットボールが、ポールの築いた歴史をどう処理するのか内容を選択する際の判断材料を明確に示されているのである。偲ぶ会により、再びビジョンを輝かすことを出席者たちは語り合い、宮様はその意図を励まされた。

 当時の日本アメリカンフットボール協会(古川明理事長)は直ちに行動を開始した。3月18日、日本協会の安藤信和顧問(前理事長、子爵安藤家御家流16代目)、キープ協会の黒田常務、宮様の友人N女史、私は「偲ぶ会」に臨席していただいた答礼のため、赤坂御用地の宮邸を訪問した。
 こで偲ぶ会でのお礼とともにお願いした内容は、フットボールの国民スポーツへの振興のため、(1)三笠宮杯の創設(2)宮様の日本協会名誉総裁へ就任していただけないかということであり、安藤顧問から「日本で最高のゲームに宮様の名を永遠に記念として残させていただきたい」と申し上げた。宮様には笑顔にて、後日御沙汰をいただけることとなった。

 この日、安藤顧問が宮家を訪問した同じ時間に、日本アメリカンフットボール協会は、古川理事長以下、父ポールの眠る八ヶ岳山麓清里のキープ協会清泉寮で理事会を開催し、清里に日本フットボールの歴史と栄誉の資料を集めた「日本アメリカンフットボールの殿堂」を建設するための全体計画を正式に決めた。歴史的な瞬間である。(詳細はEpisode-5に)

 宮家訪問と清里での日本協会理事会開催の日程は偶然の一致と思うだろうか。ある事象をめぐるシンクロニシティSynchronicity(共時性)という作用があることは指摘されなければならない。それは熱き思いが時空を超えて共振することの証明であり、その寓意はいと高き栄誉の殿堂(The Hall Of Fame)は、いと高き起源(The Genesis)を持たなければならないということである。平成7年3月18日、シンクロニシティは確かに赤坂御用地と清里で起こっていた。

 その後5月16日の御沙汰により、三笠宮家では寛仁親王殿下が日本アメリカンフットボール協会の発展に協力していただけることとなった。特に金銭の不祥事を起こさないようにしてほしいということであった。つまりそれまでの責任のない任意団体を改め、法人化による体制の強化も示唆されてのことであった。同時に宮務官を通して連絡するよう指示もあり、皇室とアメリカンフットボールの関係はこの時点で公式なものとなったのである。

 ポール・ラッシュ記念センターならびに日本アメリカンフットボールの殿堂は平成8年3月28日、落成式が現地で行なわれた。式典に臨席した貴賓は高円宮殿下、米国大使館のウェイン・グリフィス総領事ら多数に及び、日米両国から約400人が参加し、完成を祝った。
 式典ではテープカットのあと高円宮殿下をはじめ列席者が、記念センターに展示されるポールやキープ協会などの歴史資料約500点の展示を見学。日本アメリカンフットボールの殿堂では、日本協会の古川理事長、金沢好夫担当理事が殿下へのご説明役を務めた。
 落成式典に続き、清泉寮では祝賀会が開かれ、高円宮殿下は祝辞で力強い励しのメッセージを語られた。

◇三笠宮寛仁親王・高円宮憲仁親王両殿下とフットボール名誉総裁のお約束

 日本アメリカンフットボールの殿堂には日本協会にとって大きな意義があった。殿堂実現のため関東、関西そして全国のフットボール関係者が力を合わせて建設資金作りで協力したことであった。
 そして、もう1点は「平成のスポーツ殿下」として国民に親しまれ、日本のサッカーがまだマイナーな時代から日本サッカー協会の名誉総裁として、国民競技への発展を支援してこられた高円宮殿下が、アメリカンフットボールへの関心を表明されたことであった。
 しかしながら、殿下は平成14年11月21日、カナダ大使館でスカッシュの練習中に心不全で倒れ、帰らぬ人となられた。皇族としての活動が期待されるなか、「サッカーの宮様」として知られた殿下がアメリカンフットボールにかかわることになれば「フットボールの宮様」としていよいよ国民に親しまれたであろう。

 三笠宮殿下が平成7年、日本アメリカンフットボールに対して述べられた宮様杯、名誉総裁のお約束は、平成21年の今も実現されていない。14年間の空白は、ひとえに法人化の問題をはじめアメリカンフットボールの組織の側の問題にあった。
 殿下は12月2日、94歳の誕生日を迎えられたが、御心が今もフットボールに開かれていることは、しばらく前に殿下に拝謁した関係者が証言していることを最大の感謝の気持とともに報告したい。Episode-4ではこれまで知られなかったフットボールの父と日本の皇室の歴史秘話を紹介した。われわれは、果たして過去の先輩たちの歴史に学び、未来に備えることができるのだろうか。

(Episode-5に続く)


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井尻俊之:「清里の父ポール・ラッシュ伝」「1934フットボール元年 父ポール・ラッシュの真実」著者、山梨県アメリカンフットボール協会理事。




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